
ホテルニューオータニの敷地が彦根藩井伊家の中屋敷であったことは、現在の町名にも残ることからも多くの人の知るところである。この江戸藩邸には、江戸城からの距離とそれぞれの機能により、上屋敷・中屋敷・下屋敷という区分があった。ちなみに井伊家の上屋敷は現在の憲政記念館及び国会議事堂の前庭あたり、中屋敷は紀尾井町、そして下屋敷は現在の明治神宮の敷地内にあった。ちなみに、井伊家は徳川家康以来の譜代大名の家柄として、彦根城を居城とする35万石の譜代大名筆頭として江戸時代を通じ、転封もなく安定した地位を築いた希有な家柄でもあった。
直弼は11代藩主、井伊直中の十四男として生まれる。しかし兄弟も多く、庶子だったこともあり、17歳から32歳までの15年間にわたり300俵の捨扶持の部屋住みの身分に甘んじる。
この間、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けた邸に住み、世捨て人のように暮らした。しかし、この15年間という時間を直弼は無駄にすることはなかった。特に茶道(石州流)では宗観という雅号の下、一派を形成し、著書もしたためる。
「茶湯一會集」の23条の冒頭には、「本日の出会いの尊さを亭主も客もおろそかにすることなく、気を配り、心に留めて、双方が真心を持って向き合う」という"一期一会"の思想が説かれている。他にも直弼の趣味は幅広く、書、絵画、和歌、能楽を極めると共に、剣術、居合、槍術、弓術、砲術と武芸の鍛錬にも没頭した。しかし、風流と自己鍛錬に生きる直弼の姿に周囲は「チャカポン(茶・歌・鼓)」という渾名をつけ、揶揄した。
そんな直弼は数奇な運命に導かれるように1850年、彦根藩の15代藩主となる。そしてその3年後、ペリーが浦賀に来航し、開国と攘夷とで江戸幕府内の対立の溝が深まる1858年、幕府の大老にまで登りつめる。あまねく攘夷派を退け、1958年6月19日、ポーハタン号上で日米修好通商条約は締結されるが、多くの恨みをかった直弼はその2年後の雪の舞う雛の節句、桜田門外で散った。明治維新後、井伊家から直弼の遺品と思われる大量の洋書や世界地図が発見され、彼の開国論の根拠を知ることになる。生涯学び続けた井伊直弼、変革期における一国のリーダーの行動を支えたのは、常に広く知識を求める姿勢と自らを鍛錬する真摯な日常だったのではないだろうか。
